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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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現代の世界情勢を見ると、私には理解できないことが、次々と起こっている。何か悪いことの前兆であるような気がする。具体的に、挙げてもキリがないのではなかろうか?
そんな中で何となく、この世がすでに邪悪な力に支配されているような気がするのは、私だけであろうか?
何となく、すでに支配をされているような気がするのである。地球外生命体などの存在を考えるまでもなく、人類はすでに何らかの組織の管理下にあるような気配を感じる。つまり、地球上の人類は何かの目的によって、かろうじて生かされているのである。
そんなことを最近になって、考えるようになった。まったくの、杞憂であればよいのだが、……。
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義姉が亡くなったときは大変であった。借りていた部屋が、実際にゴミ屋敷になっていたからである。その整理には、業者に頼んで10万円ほど、かかってしまった。何でも保存をしておくと、最後には足の踏み場もなくなってしまう。そして、部屋の中で身動きができない。
結局、何のための住まいかが、わからない。大きい家ならともかく、狭い空間では、不要なものがたくさんあるのも困る。
そこで、必要最小限のものだけを保存するようにしたい。その品物や道具は、どこにあるかを熟知していて、すぐに取り出して使えるようにしておく。そんなことが、義姉が死んだときに、私にも、よくわかった。
そもそも時間とは、いったい何なのだろうか?
物理的に実際にある現象なのだろうか? それとも単なる概念であろうか。運動がなければ、時間が生じないというようなことも気になる。
ふつう、時間と空間を考える。空間が時間とともに変化をするらしい。しかし、空間に運動のない状態では、時間の意味がなくなってしまう。
また、時間には過去と未来がある。過去は過ぎ去ったとき、未来はこれからやってくる時間という。しかし、過去の時間に戻れるわけではないし、未来の時間に行くこともできない。タイムマシンという装置があるらしいが、どうもよくわからない。
自分にとって、ただ「今」という現在があるのみで、過去や未来などは、いわゆる「今」における概念でしかない。エックハルトの講演にあったように、概念にとらわれて考えるのでは意味がない。
あたかも、「今」は時間に関する規定がない。しかし、過去や未来は時間によって定義付けられている概念。つまり、そこに行ったら、そこが「今」になっている。
そもそも「時間」とは、何なのだろうか?
Vladimir Horowitz - Chopin Piano Sonata No. 2 実際の演奏を聴くには、 http://youtu.be/OYG-Q-TlC8E
を聞いた。
三楽章に葬送行進曲の付いている私の大好きなピアノソナタである。言うまでもなく、とにかく上手である。お年はわからないが、お元気で素晴らしいことである。
一楽章の冒頭部から力の入ったホロビッツならでの演奏である。アクセントがはっきりしていて、ピアノがきしいでしまうほどの音量。何とも素晴らしい。ピアノも弾けないし、音楽にもあまり精通していない私でも、興奮をするほどの感激を与える。
演奏が終わると、やはり「ブラボー」がいくつか出てきた。
私は、さすがであると思った。
日医大に入院して、退院をするまでの期間は、私にとってかつてない経験であった。そのせいか、退院をしてから記憶などが薄らいでしまったようだ。その結果、基本的なことも、スムーズにできなくなってしまった。
例えば、デジカメの画像を取り込めなくなってしまった。ソフトのせいか、私の手違いか、どうしてもうまくいかない。つまり、読み込めないのである。以前のようにすると、セーブするフォルダなどを求められる。そして、それらをインプットしても、先に進まないのである。入院前のときの一連の手順と変わってしまっている。
そこで、仕方がないのでDELLは諦めて、富士通ノートでしてみた。マウスの下にあるソケットにデジカメのケーブルを差し込んで、デジカメに接続。すると、ピクチャにあるマイフォトに保存される。動画の場合は、ビデオに保存される。今までと違って、別々のフォルダになる。そんなことが、新たにわかった。そして、今後は、そうするつもりである。ただし、画像ソフトがないので、ペイントで工夫をしなければならない。
それも、いいじゃないかと思う。
久々に自宅の風呂に入った。たいがいは、週に二回ぐらい近場の温泉に行くので、自宅の風呂には入らない。なぜそのような習慣になったかと言うと、自宅の風呂は結構危ないからである。つまり、風呂に入っていて、気分が悪くなったら、誰も助けてくれない。
一人生活や独身の場合は、自分が救急車を呼ぶしかないのである。しかし、裸の状態で、電話をかけたり、着替えなど入院の用意をするのが大変。そこで、銭湯のほうが安心というわけ。
自宅の風呂にも、デメリットはある。費用がかかることと、後の清掃が面倒であること。そこで、冬場は月に一回ぐらいになってしまう。
また、今後もしも給水がストップしたときのことも、考えておかなければならない。飲み水や煮炊き用には、それなりのストックをするが、問題はトイレ大便に流す水である。それがないと、生活に支障が出てしまう。そこで、なるべく汚さないようにして、風呂いっぱいの水を残しておくのがよいのではないか。
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