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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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少しでも元気なうちに、歩いておこう。


経典を読んでいると、身体が健康なうちに努力をして、仏教の勉強をしておきなさいというようなことが書いてある。私の場合は、自分の足で歩けるうちに、行けるところに行っておこうと思う。そして、その記憶のポイントをデジカメで撮って、アルバムにしておく。

そのようにしておくと、仮に歩くのが不自由になっても、アルバムを見れば何とか記憶が取り戻せる。もっとも、その後に風景や建物などが変わってしまうことがあるが、それはそれでもよい。

「観音の研究」を始めてみてわかったことであるが、すでに行った寺院などのアルバムを見ると、境内にあった像などはたいがい写っている。むろん新しく建てられたものもあるだろうが、単にうろ覚えな記憶をたどるよりは、ずっと確実である。その映像を写したときの気持までが甦ってくることさえあるから、まったく不思議だと思う。
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ほどほどにすれば、心が伸びやかになる。


何でも完全にしようと考え、精魂を傾けてするのがよいだろう。しかし、老いてくると体力が続かない。精魂を傾けてしているが、疲れが出てしまって、逆に注意力が散漫になってしまう。

いきおい、そのようになると、よいものができない。したがって、ある程度ほどほどにすることが大切だと思う。ほどほどと言っても、いいかげんにすることではない。常に力の余裕を残して、一つずつ仕上げていくことである。

伸び伸びとした気持で当たれば、仕上がったものにもそれなりに余裕が感じられる。ある程度の余力をいつも残しておくことが、老いてくると必要になってくるようだ。つまり、疲れてしまって完成できなかったり、仕上げの部分が疎(おろそ)かになったりしてはいけない。そんな意味で、行き倒れないように、力の使い方のスケジュールが必要になってくるのではないだろうか。
私には使いきれない多くの機能。


デジカメのシャッターが押しにくい。壊れてしまったわけではないが、接触が悪くなったのであろう。押してもダメなときがある。強く押すと切れるのだが、そのときに手振れをしてしまう。三万枚以上も撮影したのだから、仕方がないのかもしれない。

そこで、小川町にあるサービスステーションに行った。すると、すでに機種は生産しておらず、修理費が九千円くらいかかるという。仕方なく、代替販売で「FE-4020」12,000円というのと交換して帰った。(ビッグカメラで販売価格を見たら、19,800円だった)

その取扱説明書を見て、驚いてしまった。性能の素晴らしさと、機能の多さである。そこで、少しでも簡単にするために「SD/SDHCメモリーカード(別売)」を買わないことにした。ケチっているわけではないが、複雑になってしまうからである。それでも、静止画が193枚、ムービーが53秒(音声あり)も大丈夫。むろん、ムービーを撮れば静止画の枚数が減ってしまう。でも、私の一日の活動には十分なのである。
少しずつ整理をしよう、使わないもの。


ぼつぼつと身の回りのものを整理する時期が、私にも来たようだ。今までは、いつか使うだろうと考えて、何でも取っておいたのだが、考えてみると今後もそのままになってしまうもののほうが多いだろう。

品物などは、思い切って捨ててしまえばよい。しかし、問題は文なのである。苦労して何とかまとめた原稿は、未完成ではあるものの削除してしまうのが、何となく惜しい。とくに、そのときそのときの考えや価値観などは、いわば私の人生の一部なので、残しておきたいような気持にとらわれる。

そこで、書物や原稿などを見直して、整理するものと残すものを分別したいのであるが、それがまたなかなか難しい。なぜならば、仕掛中のものは、見直しをして完成をしたいという感情があるからである。そんなわけで、まず文ではなく、品物の整理をし始めたところである。
人間の修行をいかにしたらよいのか?


私は仏教徒でも、キリスト教徒でもない。しかし、高齢になって若かったころの信仰のない無計画な日々を反省したので、残る人生を修行に励もうと思う。そこで、『正法眼蔵』に引用されている「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教」の最初の二句を考えてみた。奇行で有名な一休宗純の掛軸にも、その最初の文字があったことを覚えている。

白居易(白楽天)が、変人の鳥彙道林(ちょうかどうりん)に修行方法を聞く。「諸悪莫作・衆善奉行」と答えが返ってくる。白居易は「そんなことは、子どもでも知っている」といちゃもんをつける。すると、鳥彙和尚は言う。「子どもでもわかっているが、大人や老人でもできないことじゃ。」

わかっていてもできないのは世の常であるが、もしかしたら努力が足りないのかもしれない。残り少ない人生を何とかわかっていることを実行して、有効に過ごしたい。そう思いませんか?
考えることが必要、現代社会。


専門化をした現代社会においては、余分なことを考えない人々が多くなった。むろん、私もそうである。電車に乗るときにも、モーターの調子や路線の保守状態などを調べたりはしない。その担当の人を信用するので、安心して居眠りをする。

しかし、自分自身が考えることも必要ではないか。今までは知識の量だけで、何とかなった。だから、多くの書物を読んだり、知識があると、大学にも合格できた。今後は、読んでも考えなければダメじゃないだろうか。

例えば、旧約聖書である。バールの神とヤハウェの対立などは、デービット=アイクの驚くべき発言を裏付けているようだ。私は、いつも「すべて真実は、すでにあった。しかし、それに気付かなかった」のではないかと、秘かに考えたりする。知らないだけで、ギャーギャーというのが愚かな人間である。
デービット=アイクの言葉、真実なのか?


十年くらい前だったろうか。デービット=アイクの本を読んだ。そのとき、私の考えていることと似たことを言う人がいるものだと思った。具体的には、その対象がちょっと異なる。そして、最近になってYouTubeで彼の動画を見た。

私は、考えに迷ったときには、直感をたよる。あれこれと思案をしても解決ができないと、静かに考えて思いついたほうを選ぶのである。それが、非常識であっても、また現在の学説などと異なっていても、自分自身の考えや結論をいちおうは出しておきたい。そして、できれば書いたもので残しておく。

「安心立命」の問題から「死後の問題」などを考えてきたが、何となく現代科学では人類が知りえないような奥義があるらしい。あたかもケンタッキーの牧場にいる鶏が、カーネル=サンダーおじさんの計画を知らないように、……。
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