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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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ムダなこと、ムダな情報、あまりに多い。


自分自身のことはさておいて、インターネット上には、ムダなことが非常に多い。なぜならば、ムダな情報が氾濫しているからだ。もっとも、そのムダにたよってメールなどでいかがわしいビジネスをしている業者も多いみたい。そんなわけで、メールのウイルス・テーブルなどもどんどん大きくなっていく。

また、貴重なインターネット上に一般の人には不要な情報がはびこる。つまり、有毒ガスを社会に撒き散らすのと同じ。やがて、撒いた自分自身もアウトになって滅びてしまう。

少しずつムダな情報の被害をこうむって、私はつくづく思う。時間のロス、そしてシステムのロスなど何とかならないものであろうか。顔の互いに見えにくい情報化社会でも、モラルが必要なのではないか。
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本能のままに、いきおい意味のないこと!


旧約の『伝道の書』ではないが、人の一生にはムダとムリとムラの多いもののようだ。そこにはソロモンが人生を後悔したような形式で書かれているが、むろん誰が書いたものでもよろしい。何回読んでも、よく言い当てていると、私は思う。

例えば、最後のほうに「本を書いてもキリがない」というような警告がある。本ではないが、金を貯めても、名誉・賞賛を求めても、また趣味で何かを集めても、『伝道の書』の論理で言うと意味がない。だって、栄華を極めたソロモン王でさえそうだったからだ。

ホームページなども、同じことだろう。いくら大きくしても、訪問者があっても、仕方のないことである。もしかしたら、本能のままに意味のないことを繰り返しているのかもしれない。
オシッコを飲むか、飲まぬか悩み続ける。


「飲尿療法」というのがあるそうです。
つまり、オシッコの中にある成分を自分自身の身体にフィードバックすることによって、ホメオスタシスを改善して、本来の健康になるのです。しかし、そうは言ってもオシッコを飲むのには躊躇します。なぜならば、オシッコは一種の老廃物だからです。

ウンコと違ってオシッコは、腎臓で濾過された液体ですから、出たときはふつう無菌状態で清潔です。砂漠の地域では、日常的にラクダのオシッコで顔を洗ったりするそうです。また、遭難者が水がないためにオシッコを飲んで生き延びたというケースも、今までに多く報告されました。

本当は、酒やワイン、さらに糠味噌(ぬかみそ)など微生物のウンコ部分まで食べることを考えたら、自分自身のオシッコなどは何でもないことかもしれません。あくまで、習慣的なことだからです。
のろのろとしか、動けない老いたる身体(からだ)。


若いときは身体が軽く、いつも軽快、そして颯爽としていた。
しかし、還暦を過ぎてから次第に身が重くなった感じ。私は、むろん妊娠の経験などないが、何だか自分の中に何かが入っているみたい。

なぜならば、何となく身体が重く感じて、何かをするとすぐに疲れてしまう。疲れやすくなったばかりでなく、飽きやすくもなったみたい。おそらく、新陳代謝が悪くなったのだろう。もしかしたら、身体の中に老廃物が蓄積しているのかもしれない。

そこで、身体のクリーンアップをするための若返る方法を模索している。
ローマ法王の一人は、70歳の誕生日に若い信者数人が血液を差し上げた。しかし、輸血をして数時間後に法王は天国に召されてしまった。
と、いうような話を読んだことがある。
書き足していく楽しみも、プチさん(プティ散策)にあり。


計画をしても、いっぺんには回れない。途中で疲れてしまったり、空模様がおかしくなったり、そんなことがかなりある。もっとも、逆に調子がよくて考えたよりも多くの場所に行くことも、あることはあるが。

あまりムリをしないために途中でやめても、残したところは次の楽しみにするとよいだろう。若いころならともかく、老いてくるとムリをしないほうがよい。強行軍をすると、後で体調がおかしくなってしまうことが多いからだ。

そんなことで、レポートは行ったところだけでいったん終える。しかし、次回に行ったときに、そこに書き足していけばよいのである。そんなことにも、いわば文章を成長させるというような楽しみがある。それはあたかも、盆栽を育てるようなものであろう。


現実は夢か幻(まぼろし)、欺かれおり。


私たちの日々は、「喜怒哀楽」、「四苦八苦」などの連続。
しかし、『般若心経』ではないが、すべてが実際は「空」なのである。つまり、日々の現実と考えている現象は、脳のもたらす幻影という。とっぴであるが、そのように考える理論があるらしい。

私たちは、自分自身がいわゆる平均と思っていることに誤謬があるのではないか。まず、その大きさである。

むろん、細菌に比べると大きい。しかし、宇宙の大きさと比べると微塵以下。したがって、現実と言っても空間と時間の中で意識をする瞬間なのであって、『般若心経』の考えから言ってしまえば、すべて「空」であって、仮の姿でしかない。言ってしまえば、脳が欺かれているのである。そんなふに、ふと考え始めたのである。
ことごとく中途半端で終える怠慢。


若いときのような情熱が、すでになくなってしまったのだろうか。
やってみて何となく傾向がわかると、ついそれで終えてしまう。怠慢というか、不真面目のそしりを免れないであろう。

本当は、もっとがんばって完成度の高いものにしなければならない。しかし、持ち時間がもはや多くないので、つい手抜きの状態になる。
つまり、傾向がわかっても対策がないのである。

かつて、受験のための雑誌に『傾向と対策』というのがあった。
本来は、「傾向」がわかれば「対策」が容易になって、万全である。まず、傾向を知るということが、万事に大切な所以(ゆえん)。

そんなことがわかっていても、傾向がわかってしまうと興味が薄れてしまうのは、もしかしたら加齢によるものなのだろうか。
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