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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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退院の後に、次々身体(からだ)の不調。


前立腺の手術をするために、十日間ほどの入院をした。
その結果は、素晴らしいほどの効果があって、二十年ほど若返ったようだ。つまり、お陰さまでオシッコがじゃんじゃん出るようになった。

医学の進歩と、執刀医の先生の技術に感謝をしている次第。
しかし、その後になって他の部分がなぜか次々と悪くなってしまった。身体の中に、パラサイトが常駐するようになってしまったためかもしれない。手術の前に数ヶ月間、カテーテルを用いたのでそこから体内に感染をしてしまったのではないだろうか。

そのパラサイトが、次々と胃腸などの内臓に症状をもたらす。
衰えてしまった身体には、かつてのような抵抗力がなくなってしまったようだ。まず、体力の回復をする必要があるらしい。
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それなりの理由はあるが、病(やまい)は愚か。


病気になって、つくづくと思う。
いろいろと事情はあったものの、不勉強で気付かなかったことが原因になっていることが多い。つまり、私(rik)が病気になったことの理由を問いただせば、自分自身が愚かだったことが原因だろう。

前立腺肥大なども、若かったころに脂肪や糖分などの栄養の取りすぎた結果のようだ。また、院内感染でパラサイトが体内に入ってしまったのも、そもそも入院をするような状態に陥ったからであろう。

個人差があることを忘れて、一律に考えるのもよくない。
「朝に水を多量に飲むと健康によい」とか「朝食を抜くとよい」とか「よく噛めば消化によい」などといっても、必ずしもそうでない。例えば、あまり噛むと繊維分がなくなってしまって、かえって胃腸をダメにしてしまう。
……
雨の日は小説などを試みており。


雨が降ったり、雪の日などは外出できない。そこで、自分の部屋でパソコンを始める。ときには長編小説を手がける。しかし、なかなか完成しない。小説家を志向しているのではなく、老化予防のためであるから、それはそれでよい。

したがって、回想創造法を用いた自己福音書としての作品。そこで、いずれも若い女性が主人公。今のところ三本あって、タイトルは、
『ジューダスの福音書』
『悪魔先生』……ヴィヴァルディの生涯。「アマデウス」と似ている。
『愛と死と永遠の書』……芹沢光次郎の小説を参考にした。
としてみた。
なお、『ジューダスの福音書』は『ユダの福音書』としたかったが、そうするとグーグルやヤフーに拾われてしまうので、英語読みにしてある。
不用品、日に一つずつ捨てていきたし。


部屋にいて、ざっと身の回りを見渡すと、あまりにも不必要なものが多いのに驚く。おそらく、一生つまり私が生きている間に使う必要のない品々。そして、まず読むことのないであろう本など。

そこで、それらを整理してしまおうと思うのだが、なかなかできない。なぜならば、いつか必要になるんじゃないかなどと未練があるからだ。しかし、とうとう意を決して「一日に一つずつでも考えて整理をしてしまおう」などと決心をした次第。

『一言芳談』に、
<俊乗房云、後世(ごせ)をおもはんものは、じんだがめ一も、もつまじき物とこそ心えて候へ。>
とあった。
内側も、外側もない不思議空間。


私たちの人体は、遠い過去にはパイプのようなものだったらしい。つまり、ミミズのように体内には一本だけの単純な消化用の筒があったのではないか。それが、機能を分担する各器官の発達によって、次第に複雑になってきた。

そんなわけで、現在でも口腔や胃の中・肺の中などは体外とも考えられる。浮き輪やドーナットに例えれば、中心の穴の空いているところ。すると、体内というのは浮き輪でいえば空気が入っている部分になることがわかる。そしてそこは、内側であっても一連の皮膚で守られている。

なぜ、そのようなことを考えるかというと「外包」と「内包」という概念を使って、人間を定義しようとしているからである。外側にある一連の皮膚で囲まれている部分を自己と考えるのは、社会的に、さらには宇宙的規模で考えると、未発達な脳のもたらす錯覚または幻影になってしまうからだ。
死ぬときに「意」をもちてゆく懸念が生ず。


最近になって、何となく自分自身の「死」を考えるようになった。
そして、むろん肉体は焼かれてしまうが、「意」が残るような懸念が心配として現実化してきた。今までは、脳も焼かれてしまうので、そんなことはないと考えていた。

しかし、生前には記憶が脳に蓄えられているのが現実としても、いっぽうではプラズマとして荷電体になっているらしい。人魂(ひとだま)などという言葉が古くからあるのは、そのようなことを暗示しているのではないか。

とにかく、物理的な物体として人体を考えるのではなく、電磁波のようなエネルギーとしてとらえると、重力の場だけでは解決できないこともあるような気がする。
人間はカインの心、もつものなのか?


旧約聖書に出てくるカインとアベルである。
アベルがベジタリアンであり、カインが肉食家であったのかもしれない。そして、その食生活が行動にあらわれてしまったのだろう。

いずれにしても、その経過はどうであれ、カインは罪を犯してしまうのである。闘争的なのも、肉食の結果かもしれない。

カインの心は、寂しかったかもしれない。そして人間の心は、もともと寂しいのであろう。人間は寂しい存在で、意味もなく荒野をほっつき歩く習性が、いかんともしがたい。
農業をして、一定の場所に安住できれば、それが忘れられていくのであろう。カインとアベルについては、聖書に書かれていることから、多くのことを学ぶことができる。
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