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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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あまりにも複雑なこと、理解できない。


考えれば考えるほど、わからなくなることが多い。例えば、技術的に複雑な関係にあることは、考えても理解できないことがある。自分の知識の範囲を超えているからだ。

周知の事実であっても、疑いだすとキリのないこともある。かつての大本営発表なども、いま考えてみると、かなり曖昧な情報だったことがわかる。しかし、当時はそれが国民の間で、事実として受け入れられた。それに反駁することができなかったという事情もあるだろう。

世界的に報道された内容なども、疑いだせばキリのないことがある。地動説のように長い間、常識として信じられていたこともある。最先端の技術である月面着陸なども、いかがなものであろうか。そうなると、ちょっと信仰にも似ているのではないか。
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晴れた日は、森林浴に行くこと多し。


森林浴は、健康によいという。薬(くすり)の多くは、植物から合成されていることや、酸素の濃度などもその理由かもしれない。そんなわけで、木々の多いところへ行く。

また、森林の他にも川の流れなども健康によいらしい。私は、木々の間や川の畔(ほとり)で、いつも深呼吸をする。とても気持ちがよく、何となく身体が浄化される感じだ。

しかし、森林といっても多摩地区の範囲。多摩市内やせいぜい高尾まで。多摩にも、桜ヶ丘公園に隣接して、林野庁の試験林がある。野草なども生えていて、まったくのどかな場所である。河川は多摩川の流れを眺める。河川敷で石を拾うこともあるが、つげ義春氏が書いているように、あまり形のよいものはない。それでも、気持ちの和む場所である。
願わくばコロリ往生、涼しい季節。


何とも、しまりのない句である。意味は「できたらコロリ往生がしたい、涼しい季節に」というのだ。西行の桜花の短歌などと比べると、だいぶお粗末なことがわかる。作品として、劣っているのである。

しかし、気持ちとしては明らかではないか。よいよいになって、長い間の病人生活などはしないで、涼しい季節にポッコリ死にたい。なぜならば、暑い時期だと一人暮らしのときは、発見をされないままに腐ってしまうからである。

現代社会は化学薬品症候群などが原因で、コロリ往生ができにくい。ひどいのは食べた薬品によって、自分自身の身体が腐敗することなくミイラ化をして発見されたりする。私は、なるべく食べものに薬品が入っていないものを利用するが、それでもコロリ往生ができるかどうか心配である。
一遍はいばりを配り、病を治す。


鎌倉時代の時宗の開祖、一遍上人はオシッコ、つまり尿(いばり)を万病に効くと言って、竹筒に入れて民衆に配ったという。飢饉などの多かった時代であったから、それ相応の効果があったのであろう。その竹筒を押し頂いている人たちの絵が残っている。

オシッコには身体の情報が含まれていて、それを喉の奥にあるセンサー器官が検知するらしい。そして身体にフィードバックすることによって、ホメオスタシスがはたらく。つまり、発病を未然に防ぐわけである。

府中に、時宗の称名寺という寺がある。そして、そこの境内に一遍上人の立像が祀られている。私は、いつもその横で休むのであるが、痩せて背の高い像を仰ぎ見る。等身大に作られたのであろうが、高い場所に立っていて、さらに背が高いので大きく見える。親しみやすいが、厳かな感じのする僧だ。
わからないことだからこそ、死は不安なり。


私(rik)は、まだ死んだことがないから、死んだらどうなるかわからない。したがって、不安である。しかし、何となく知らない土地に行くようなものと考えてもよいのではないか。そんな経験は、何回かある。最初は不安だったが、すぐ新しい土地に慣れてしまう。

ソクラテスの場合、体験をしたことがないと断って、もしかしたら素晴らしいところかもしれないとプラトンの言葉で書かれている。また、荘子の中には、髑髏に生き返らせてやると言ったら、死んで安らかに眠っているのに起こさないでくれと言って怒った話がある。

いったい、どうなんであろうか。
生きている間に、死んだ状態を考えても致し方ない。しかし、そうは言っても安心立命のためには、覚悟をしておく必要がありそうである。
老いてきて、いつしか病膏肓に入る。


いつの間にか、重度の糖尿病になってしまった。そして、いかにしても血糖値が下がらない。もしかしたら、すでにインシュリンが出なくなってしまったのではないか。

病膏肓(やまいこうこう)とは、病が膏肓(こうこう)にまで進んでしまったこと。膏肓は、間違って「こうもう」とも読まれ、横隔膜の後ろあたりらしい。そして、病気がそこまで進むと、もはや治療が不可能で、アウト寸前という。

いずれにしても病膏肓と言えば、末期症状とも言えるだろう。身体のホメオスタシスが効かなくなって、なかなか治らない。それどころか、ますます症状が悪化していく。つまり、死ぬのを待っているような状態ともいえる。まったく、困ったことである。
「タンブラン」を探しながら、ラモーの曲聞く。


何となく老人の懐古趣味みたいだけど、繰言でないだけまし。それは、私が中学校のときに聞いたラモーの「タンブラン」という曲。最初の四小節ほど楽譜が音楽の教科書に載っていて、それを保田先生が弾いてくれた。何となく「黄金虫は金持ちだ」に似ていると思ったことをふと思い出したのである。

そんなことで、さっそく「YouTube」で調べてみた。すると、「タンブラン」という動画はない。仕方がないので、下にある「Googleで「タンブラン」を検索する」というところを見る。すると、該当する本があった。そして、「クラブサン名曲集第二組曲」というところに試聴があって、最初から30秒だけ聞けた。

結局、ラモーの再生リストなどもあったが、「タンブラン」という曲は「YouTube」にはなかった。どうも「YouTube」の仕組みが、まだわからない。
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