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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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ウイルスにかかったらしく、気分優れぬ。


ここのところ、体調のよくない日々が続く。おそらく、インフルエンザなどのウイルスが体内に入ったためであろう。気分が優れない。考えてみれば、それは当然なこと。ウイルスだって生き物である。とうぜん、生きるためには栄養分が必要。それを宿主である我々から摂っているのだから、取られたほうには大きな負担がかかる。

おそらく今後は、もっと得体の知れないウイルスが流行するであろう。そして、そのウイルスは強力であって、かかったら我々は三日くらいでやられてしまうのではないか。

何とかして、抵抗力のある身体にしておきたい。

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取りとめのないことばかり、次々綴る。


思いついたことを「記憶の断片」などと言って、次々とメモしておく。おそらく、後で見たら自分自身でも恥ずかしいものだろう。しかし、そんなことはどうでもよい。とも、思う。なぜならば、生き様そのものも、あまりみっともいいものでないからだ。

古希になって、つくづくと考えてみたら、あまり自慢のできるようなことを今までにしていなかったことに気付く。だからと言って、自分自身の能力や努力が不足であったなどとは考えない。くよくよ考えても仕方のないことであると、諦めてしまう。

そして、アレキサンダー大王やナポレオン、さらにヒトラーや東条英機たちのしたことが、偉大ではあったけれども、安らかである理想的な生き様ではないなどと、開き直るのである。いかがなものであろうか。
生きていることが、すなわち死の準備なり。


若いころはともかく還暦や古希を過ぎたら、死がいつくるかわからない。健康だから、いつまでも生きられるなどと思ったら、大間違い。まして、病気がちのときは、まったく覚束ない状態である。

そんなわけで、いつ死んでもよいような心構えが必要になる。つまり、いつお迎えがきても慌てない覚悟だ。身の回りの品物の整理や仕掛かりになっている仕事の完成など、考えてみればキリがない。

そんな中で、自分自身の安心立命に関する心がけが大切。生老病死は避けられないのだから、せめて四苦八苦を少なくして死に臨みたい。そのためには、信仰に入るのがよいかもしれない。しかし、それでは疑問がますます増してしまうだろう。結局は、自分自身の安心立命を自分自身で構築しなければならないからである。
生きている実感なくて、生かされている。


自分が生きているという感じではなく、何となく生かされているというような気持ち。つまり、日々の方便(たつき)なども能動的でなく、受動的な観念になってしまった。いったい、どうしてであろうか。

身体の調子が悪かったり、持病が長引いたり悪化すると、とくに生かされていると感じる。そして、もしかしてひょっとするとアウトになるんじゃないかという心配をする。

あたかも、水槽に飼われている金魚が弱ってきて、ふらふらと泳いでいるような感じである。その金魚を見ているのであるが、自分自身が金魚になって、誰かに見られている気配を感じるのである。もしかしたら、私たち人類の何人かは、すでに神か宇宙人に支配されてしまっているのかもしれない。

痰(たん)と唾(つば)、便と尿とは似て非なるもの。


いったい何が言いたいかというと、尿はきれいだということ。

確か貝原益軒の『養生訓』に「痰は吐き捨てなさい。しかし、唾は飲み込みなさい」というような記述があったと思う。つまり、痰は不潔なものであるが、唾は清潔だということらしい。また、『ガンジーの健康論』には「ところかまわず唾をペッペと吐くのはいけません」とある。

唾も尿も空中に放置すると、腐敗をするので不潔になる。
便は大腸にいる菌などが多量に含まれているので、触れたら不潔である。いっぽう、尿は血液が腎臓で濾過されたものだから、出た直後は無菌で清潔。腎臓に疾患があったり、尿道に炎症などがなければ、そのまま飲んでもかまわない。それどころか、尿は身体の状態を保持しているので、再び適当な形で体内に入れると、フィードバックができるという。


ガンジーは、「病気は無知の結果」ともいう。


『ガンジーの健康論』という本がある。
ガンジー(1869~1948)は、インドの独立運動指導者。ロンドンで学んだが、帰国後は民族解放・独立のため活躍。ヒンズー教とイスラム教の融和に献身したが、狂信的ヒンズー教徒に暗殺された。

そのガンジーが著した本に、次のようなことが書いてある。
<人間の束縛感や自由は、心の状態である。だから、病気は行為・思考の結果。>
<医療がなければ病気は治らないという致命的な妄想がある。薬は害になることもあるのだ。>
<人体の構造を考えると、人間は菜食をするようにできている。>

確かに、そのとおりかもしれない。私(rik)が、大いに学んだ本である。
何となく、「無意味の意味」を考えており。


『一言放談』(いちごんほうだん)に、

<明禅法印云、しやせまし、せでやあらましとおぼゆるほどの事は、大抵(おおむね)せぬがよきなり。>

<又云、いたづらにねぶりゐたるは、させる徳はなけれども、失がなきなり。>

とあった。
前の文は、「するかしないかを迷って考えていることは、たいがいするのをやめたほうがよいのです」。また後の文は、「何も考えないで眠っているのは、これといった徳もつんでいないが、そうかといって悪いところもありません」。なるほど、そのように私(rik)も思う。
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