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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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マロニエの花、満開で小雨がしぶく。


聖蹟桜ヶ丘駅前の川崎街道。小降りではあるが、雨まじりの風が吹きつける中に、ひときわ桃色の花が目立つ。つい二ヶ月ほど前は、葉もなく枝がつくつくしていたが、今では鮮やかな新緑の中に、ピンクの花が満開。まったく、季節の移り変わりの速いのに驚く。

マロニエは、フランス語の「marronnier」。トチノキ科の落葉樹。ここのマロニエの和名は、ベニバナトキノキという。樹皮は灰褐色、葉は大きくて、数枚の倒卵形の小葉で、手のひら状の複葉。バルカン半島の原産で、街路樹などにする。

雨にぬれたマロニエは、葉も花も何とも鮮やかだ。葉の中に赤みがかった白色の花が円錐状についている姿を見るのが、毎年の楽しみである。
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人体の四分の三、水分という。


私たちの体重の四分の三、つまり75パーセントが水分という。水分は身体の維持に必要であるが、一日に1リットルほどの汗をかく。当然のことながら、その分を補充しなければならない。

人間も原始の時代には、海水の中にいたらしい。したがって、陸上に出ても体内に水分を保持している必要があるのだろう。細胞や血液などには、水分が必要なことは明白。

さらに、神経なども水分を必要とするらしい。痛みを脳に伝えるのは神経であるが、体内に含まれる水分の量によって痛みの感じ方が異なるようだ。性格などによっても異なるが、場合によっては痛みを感じないこともある。水分を補充摂取するときは、良質の天然水が望ましい。
表現は、短いほうが好ましくあり。


「お仙鳴かすな、馬肥やせ」ではないが、タイトルや本文も短いほうがよいのかもしれない。あれもこれも、ことごとく述べようとすると長くなってしまう。いきおい、焦点もぼける。

短くても内容がわかるようにするためには、どうすればよいのだろうか。あらゆる言葉に熟知している必要があるのだろうか。また、暗喩などを知っている必要があるのだろうか。

「桜散る」というメッセージを「試験に落ちた」という意味に用いるのは、暗号としてはどうだろうか。戦争末期の「お父さん」とか「花子さん」とか言われた人は誰だったのでしょうか。ルーズベルトは、おそらく笑っていたことでしょう。
人間の身体(からだ)の不思議、尿療法で知る。


尿は、不思議な液体である。便とは異なって、老廃物であっても清潔・無菌。だから、飲んでも問題はない。それどころか、尿を舐(な)めることによって、健康を維持できるという。

誰もが赤ちゃんの時代、母親の胎内では羊水の中にいる。その羊水には、赤ちゃんから出た尿が混じる。つまり、自分の尿の中にいて、その尿を飲んでいるのである。

尿の中の成分には、身体の中の信号が含まれているという。その情報を喉(のど)の奥にある器官で検出し、フィードバックをしてホメオスタシスを保っているらしい。つまり、負帰還をすることによって、スタビライザのような平衡が保たれるのではないか。オシッコ自体の成分が栄養や効果を与えるのではなく、その情報が健康に役立つのである。
一遍は、いばりのことを何故に知る?


一遍上人は、「オシッコを飲むと健康になる」「尿で病気が治る」などということをどうして知ったのであろうか。高僧の直観力であったかもしれない。

しかし、私は次のようにも考える。
逗留をした寺の蔵書や経を読んでいたときに、たまたま『傷寒論』があったのではないか。『傷寒論』(しょうかんろん)は中国の有名な医学書。漢方医学の原典とされる書である。後漢(25~220)の長沙(ちょうさ)の太守、張仲景によって著された。そこには、尿に関する医学的記述があるという。

この『傷寒論』は、久しく医学のバイブル的存在で、「宮廷女官チャングムの誓い」などでも、それを調べる場面があった。さらに、政木和三博士は尿を飲むことに関して近代的・科学的な見解を講演会で述べておられる。
人生の記憶を綴る、日々の断片。


この「日々記憶の断片」は、ちょっと大げさなタイトルかもしれない。いわゆる固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしようとした日々の便り。親しい人たち、そして未知の人たち、さらには自分自身への記録なのである。

簡単に言えば、日記帳とも似ている。なぜそんなことをするかというと、認知症になってしまわないための用心でもある。まだ、記憶力がしっかりしているうちに、思いついたことを何でもメモっておこうという次第。

このごろ、私(rik)は何となく物覚えが悪くなったり、度忘れをしたりするようになった。高齢になったためかもしれない。なぜならば若いころには、そんなことがなかった。そんな意味で、「日々記憶の断片」なのである。
「疲れた」と「面倒くさい」は、老いの現われ。


「疲れた」とか「面倒くさい」などを連発するようになったら、老いが現われ始めたといったよい。若いころには、それこそ「疲れ知らず」。何事も、精力的にしたものだ。

しかし、ここのところ物事をする前に、「面倒くさい」と考えることが多くなった。したがって、しないのであるから疲れないはず。それが不思議なことに、いつも疲憊(ひはい)の状態だ。そして、疲労困憊の一歩手前。何もしないのに、である。

気持ちが萎えてしまったためであろうか。あるいは、ウルマンの詩のような「青春」をすっかり失ってしまったせいであろうか。
何とかしなければならない。
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