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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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意外にも大切なのは腸内細菌。


かつて、大腸菌などは何の役にも立たないので、滅菌してしまえばよいなどと考えた時代もあった。そして、実際に体内の無菌化をする実験がなされた。確かに生まれたばかりの赤ちゃんは、体内菌などはほとんどない。むろん、赤ちゃんの口内には歯周菌もいない。

それが、少しずつ体内に住み着くのである。おそらく太古の時代から、そうだったに違いない。そこで、私は一つの仮説を考えてみた。胃とか腸が、器官として消化を分担しているのと同様に、体内菌も消化に携わっているのではないだろうか。赤血球やミトコンドリアなどのように、私たちの体内で独立をして機能するものも存在するからである。

古い時代から、内臓の機能を分担するために、善玉菌が体内に寄生をするようになったのではないか。だから、腸内を完全に消毒してしまうと、健康が保てなくなって、逆に病気になってしまう。
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心臓はガンにならない、なぜであろうか?


肺ガンとか、腎臓ガン、前立腺ガンなどはよく聞く。女性の場合は、乳ガン、子宮ガンなどもある。男性の場合に子宮ガンはないし、女性に前立腺ガンはない。乳ガンは、男性でも希にある。

しかし、私は男女ともに心臓ガンになった話を聞いたことがない。なぜ、心臓はガンにならないのでしょうか。研究や調査をしたことがないし、また医学に関係のある仕事をしているわけではないので、素人の当てずっぽうかもしれないが、自分の考えをここにメモしておきましょう。

低体温だとガンになりやすいという。おそらく、体温が下がると免疫力も低下するのであろう。その意味では、心臓の部分は体温が高いので、ガンにならないのかもしれない。また、心臓は体内でいちばんエンザイム(酵素)を消費する器官であるから、ガンになりにくいのかもしれない。


増やすより、思ったよりも減らすが難い。


趣味や道楽などは、収集品を次々と増やしていくのが楽しみである。励みにもなるので、次々と新しい品々を求める。しかし、ある時点になると、蒐集が多くなりすぎたことに気付く。そして、減らそうとすると大変である。何れも苦労して集めた愛着がある品なので、処分をするのが忍びない。

そんな事情は、おそらく他のことにも言えるのではないか。極端な例として、体重である。四十歳代からメタボのせいで、どんどん増えてしまった。そして、今さらになって減らすのが困難であることが、身にしみてわかった。

お金についても、考えなければならない。しかし、金額が大きくなっても預金通帳のゼロの桁数が増えるだけで、物としての場所を取らない。したがって、とくに減らす努力をしなくてもよいだろう。何でも前に攻めるときは簡単だが、バックして撤退するときのことも、老いたらば考えておく必要があろう。
雨の日は安居、晴れたらプチさんに行く。


いつごろだろうか、雨の日や雪の日、そして曇った日は安居(あんご)をして、晴れて青空が見える日はプチさん(プティ散策)に行くようになった。もっとも、それは年金生活者になってからのことである。

私の言う安居とは、正式には雨安居(うあんご)とも言う。単に安居(あんきょ)というと気楽にのんびりと暮らしたり、現在の状態に安心していることである。雨安居は仏語で、僧が夏の雨期に寺にこもって修行をすることである。別に夏安居・冬安居などもある。私は修行などしないが、書類の整理やパソコン記事作成、そしてページ修正をする。

晴れて青空が出ると、デジカメの写りがよい。だから、晴れた日にはプチさん(プティ散策)に行く。初めてのところに行ったり、今までに行ったところを再訪したりする。それが、とても大きな楽しみだ。
わたくしは、「食事は儀式」、そう考える。


毎度の食事である。忙しいときは、つい掻き込(かきこ)んだりする。丸飲みのこともある。しかし、それはいけないこと。渡邊五郎師は、外食であっても食事の前後に、ていねいな合掌をなさる。

仏教には「五観の偈」(ごかんのげ)がある。食事の都度「多くの人が働いて、この食事ができた」「自分はこの食事をいただく価値があるか」「貪(むさぼ)りの心を持たないことを誓う」「食事を良薬と考える」「この食事は、自分を完成させるためにいただくのだ」というのである。

わたくしは仏教徒ではないが、それでも「食事は、大自然の一部分を自分にお迎えする一つの厳粛なセレモニー」だと思う。自分以外の「腹の虫」までも、同じ立場であろう。埴谷雄高の『死霊』では、魚がイエスを糾弾したり、豆が釈迦を批判する。すでに調理したものを捨てるなど、もっての他(ほか)。


雨の日は、身の回りなど整理してみる。


身の回りなどと言っても、あまり多くはない。しかし、雨の日は出かけられないので、部屋で何かをする。私は、テレビをあまり見ない。いきおい、手持ちの書物をひも解いたり、パソコンのインターネットで調べたりする。

しかし、いちばん先にすることは、身の回りの整理。持ち物や衣服、それから部屋の中の品物、さらに資料や文章などである。

その中で手数がかかるのは、今までに作った文章の整理。いわゆる校正というのでしょうか。読み直して、間違いを訂正する作業。私は、いつでも思いついたときにメモしてしまう。その時点では、あまり内容の吟味をしない。そのような次第で、次々と文章ができる。このプログもそうであるが、「生きている証明」を思いつくままにするのだから、後で整理をする必要があるのです。
無駄なもの、使わないもの、意外に多い。


身の回りにあるものを調べてみると、意外にも使わないものが多かったり、無駄なものがかなりあることを知る。若いころはエネルギッシュだったので、多くの品物も有効に活用できた。しかし、老いてくると持物のほうに、反対に翻弄されてしまうことになる。

あまり高度で複雑な品物は、扱いきれない。自動車やパソコンなども、そうである。そんなわけで、自動車はやめてしまった。パソコンはDELLのいちばん簡単なもの。運手免許は大型と自動二輪をもっているのだが、実際にはここ数年運転をしたことがない。ただ、免許証は身分証明書としても使えるので、常に携行している。

あまりこだわりたくないが、最近になって私も「吾唯足るを知る」ということがわかってきた。「足るを知る」などという立派なことではなく、「足らざるを知らない」という、どちらかというと消極的で、無知に近いことであろうか。
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