rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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あの人に逢いたくもあり、すでに亡き後(あと)。
「あの人に逢いたい」と、強く思うことがある。しかし、当人はとっくに亡くなっている。したがって、いくら思っても逢うことはムリ。最近になって、そんなことがよくある。かつては、父母について思ったが、ここのところ親しかった知人のことが、しばしば偲(しの)ばれる。
ちょっとした何かのきっかけで、そんな感情が甦(よみがえ)ってくる。そして、なつかしく思うのである。もう一度逢ってみたいという気持ちが、何となく湧き出てくる。それが無理であることが、わかっていても。
昔から「孝行をしたいときには親はなし」とか「墓に布団は着せられぬ」などと言う。一日一日を大切にして生きていても、親に対しては、そんなことになる。したがって、友だちや恋人でも、逢える間に時間の許す限り、逢っておくのがよいのではなかろうか。
「あの人に逢いたい」と、強く思うことがある。しかし、当人はとっくに亡くなっている。したがって、いくら思っても逢うことはムリ。最近になって、そんなことがよくある。かつては、父母について思ったが、ここのところ親しかった知人のことが、しばしば偲(しの)ばれる。
ちょっとした何かのきっかけで、そんな感情が甦(よみがえ)ってくる。そして、なつかしく思うのである。もう一度逢ってみたいという気持ちが、何となく湧き出てくる。それが無理であることが、わかっていても。
昔から「孝行をしたいときには親はなし」とか「墓に布団は着せられぬ」などと言う。一日一日を大切にして生きていても、親に対しては、そんなことになる。したがって、友だちや恋人でも、逢える間に時間の許す限り、逢っておくのがよいのではなかろうか。
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ロイブケのピアノソナタを聞いて楽しむ。
久々にロイブケのピアノソナタを聞いてみた。演奏をしている動画ではなく、楽譜を次々と示すもののほうが楽しめる。
ユリウス=ロイプケ(Julius Reubke 1834~1858)はドイツの作曲家、ピアニスト。オルガニストでもあったという。ベルリンの音楽院でピアノを学び、後にフランツ=リストの愛弟子となった。しかし、二年後に亡くなっている。
「Piano Sonata in B-flat minor」となっていて番号がないから、この曲しかピアノソナタを残さなかったのかもしれない。三十分にわたる大曲でも、単一楽章のようにも聞こえる。区切りは、せいぜいフェルマータが置かれた程度。聞いて楽しむとは、動画が演奏家ではなく楽譜を示してくれるから。ページを繰る必要がない。むろん、私が弾ける内容ではないが、とても緊張をする。
久々にロイブケのピアノソナタを聞いてみた。演奏をしている動画ではなく、楽譜を次々と示すもののほうが楽しめる。
ユリウス=ロイプケ(Julius Reubke 1834~1858)はドイツの作曲家、ピアニスト。オルガニストでもあったという。ベルリンの音楽院でピアノを学び、後にフランツ=リストの愛弟子となった。しかし、二年後に亡くなっている。
「Piano Sonata in B-flat minor」となっていて番号がないから、この曲しかピアノソナタを残さなかったのかもしれない。三十分にわたる大曲でも、単一楽章のようにも聞こえる。区切りは、せいぜいフェルマータが置かれた程度。聞いて楽しむとは、動画が演奏家ではなく楽譜を示してくれるから。ページを繰る必要がない。むろん、私が弾ける内容ではないが、とても緊張をする。
マグノリア、マロニエ咲きて夏を感ずる。
マグノリア(magnolia:ラテン語)は、モクレン科モクレン属の植物。芳香があって、観賞用になる。落葉樹で、葉は卵形。春に葉に先だって紫色の六弁花を開く。中国の原産で、古くから庭木とされている。モクレン科には、コブシ・オガタマノキ・ユリノキなども含まれる。
マロニエは(marronnier:フランス語)は、トチノキ科の落葉樹。聖蹟桜ヶ丘の川崎街道にある並木は、ベニバナトチノキ。樹皮は灰褐色、葉は大きく数枚の倒卵形をした手の平状の複葉。初夏、赤みがかった白色の花を円錐状に咲かす。バルカン半島の原産、街路樹などにされる。
いずれも、個性のある花。私はどちらも大好き。マグノリアの香りも好きだし、マロニエの勢いも素晴らしい。冬に丸裸に切ってしまった木から、新芽が吹き出して、さらに花を次々と付けるのが何とも不思議である。
マグノリア(magnolia:ラテン語)は、モクレン科モクレン属の植物。芳香があって、観賞用になる。落葉樹で、葉は卵形。春に葉に先だって紫色の六弁花を開く。中国の原産で、古くから庭木とされている。モクレン科には、コブシ・オガタマノキ・ユリノキなども含まれる。
マロニエは(marronnier:フランス語)は、トチノキ科の落葉樹。聖蹟桜ヶ丘の川崎街道にある並木は、ベニバナトチノキ。樹皮は灰褐色、葉は大きく数枚の倒卵形をした手の平状の複葉。初夏、赤みがかった白色の花を円錐状に咲かす。バルカン半島の原産、街路樹などにされる。
いずれも、個性のある花。私はどちらも大好き。マグノリアの香りも好きだし、マロニエの勢いも素晴らしい。冬に丸裸に切ってしまった木から、新芽が吹き出して、さらに花を次々と付けるのが何とも不思議である。
新句(十九音)には論理の飛躍、大いに結構。
「結構」という言葉は、OKのときもNOのときも使える便利な表現。お見合いをして「結構でございます」と言われ、待っていてもなかなか連絡がこない。仕方なく問い合わせをすると、「あのとき、結構でございますとお断わりをしたはずなのに」と言う。そんな言葉があるが、新句では自分がわかればよい。
また、論理の飛躍があっても、一向にかまわない。考えに矛盾があるのは、よくあることだが論文では許されない。しかし、新句ではOK。もしも、忘れてしまいそうなことであれば、コメントとして残しておけばよい。
新句は、まず五・七・七。タイトルとも考えられる部分。それだけでもよいが、その後に思いついたことを書き加えておくとよい。いま読んでいただいているこの部分にである。「何がどうしたか」くらいの覚えは、メモっておけるだろう。繰り返すが、要は「自分でわかれば、それでよい」のである。
「結構」という言葉は、OKのときもNOのときも使える便利な表現。お見合いをして「結構でございます」と言われ、待っていてもなかなか連絡がこない。仕方なく問い合わせをすると、「あのとき、結構でございますとお断わりをしたはずなのに」と言う。そんな言葉があるが、新句では自分がわかればよい。
また、論理の飛躍があっても、一向にかまわない。考えに矛盾があるのは、よくあることだが論文では許されない。しかし、新句ではOK。もしも、忘れてしまいそうなことであれば、コメントとして残しておけばよい。
新句は、まず五・七・七。タイトルとも考えられる部分。それだけでもよいが、その後に思いついたことを書き加えておくとよい。いま読んでいただいているこの部分にである。「何がどうしたか」くらいの覚えは、メモっておけるだろう。繰り返すが、要は「自分でわかれば、それでよい」のである。
ちょうどよい、私にとって新句(十九音)の長さ。
何か記録をしたいときは、ふつう文章にする。稗田阿礼や馬のようなことは、私には不可能。そこで私は、小さい単位に区切ってメモをする。そのとき、『歎異抄』に唯円が書き残した師の言葉「弥陀の五劫思唯(ごこうしゆい、唯はりっしんべん)の願いをよくよく案ずれば、ひとへに親鸞ひとりがためなり」のような長くて高邁な文章は、到底「一人」の私にはムリ。
せいぜい、「咳をしても一人」くらい。私の知っている短詩形、つまりここでは俳句だが、その中でいちばん短い。また、五七五にもなっていない。さらに、その前後の事情がわからないと理解できない。
尾崎放哉(おざきほうさい)は東大の経済学部を卒業して、保険会社に入社。支店長になるが、ある日突然に家出をした。妻子を捨て、あちこち放浪する。西行ではないが、種田山頭火のような乞食同然になったのである。そして、小豆島で病に倒れ最期。一連の斬新な非定型俳句を残した。
何か記録をしたいときは、ふつう文章にする。稗田阿礼や馬のようなことは、私には不可能。そこで私は、小さい単位に区切ってメモをする。そのとき、『歎異抄』に唯円が書き残した師の言葉「弥陀の五劫思唯(ごこうしゆい、唯はりっしんべん)の願いをよくよく案ずれば、ひとへに親鸞ひとりがためなり」のような長くて高邁な文章は、到底「一人」の私にはムリ。
せいぜい、「咳をしても一人」くらい。私の知っている短詩形、つまりここでは俳句だが、その中でいちばん短い。また、五七五にもなっていない。さらに、その前後の事情がわからないと理解できない。
尾崎放哉(おざきほうさい)は東大の経済学部を卒業して、保険会社に入社。支店長になるが、ある日突然に家出をした。妻子を捨て、あちこち放浪する。西行ではないが、種田山頭火のような乞食同然になったのである。そして、小豆島で病に倒れ最期。一連の斬新な非定型俳句を残した。
都都逸と短歌のリズム、試みてみた。
都都逸(どどいつ)をご存知でしょうか? 「とといつ」ではありません。ふつう「都都逸」と書くが、「都々逸」「都都一」などとも。いわゆる俗曲の一つで江戸時代に成立し、寄席で歌われて流行した。「七・七・七・五」の二十六文字で、男女間の細やかな情を表現したものが多い。
短歌は、「五・七・五・七・七」のいわゆる「みそひともじ」であり三十一文字。最初の「五・七・五」を上の句、下の「七・七」を下(しも)の句という。
いずれも少し長すぎると私には思われたので、俳句の「五・七・五」では言い切れず、二文字増やして「五・七・七」とした。形式としては、短歌の上の句の最後の部分と下の句を続けたような感じである。それは、長歌(ちょうか)の最後の部分に、似ているかもしれない。そして、それに新句(十九音)と命名したのであるが、……。
都都逸(どどいつ)をご存知でしょうか? 「とといつ」ではありません。ふつう「都都逸」と書くが、「都々逸」「都都一」などとも。いわゆる俗曲の一つで江戸時代に成立し、寄席で歌われて流行した。「七・七・七・五」の二十六文字で、男女間の細やかな情を表現したものが多い。
短歌は、「五・七・五・七・七」のいわゆる「みそひともじ」であり三十一文字。最初の「五・七・五」を上の句、下の「七・七」を下(しも)の句という。
いずれも少し長すぎると私には思われたので、俳句の「五・七・五」では言い切れず、二文字増やして「五・七・七」とした。形式としては、短歌の上の句の最後の部分と下の句を続けたような感じである。それは、長歌(ちょうか)の最後の部分に、似ているかもしれない。そして、それに新句(十九音)と命名したのであるが、……。
しみじみと「ライエルマン」を雨の日に聞く。
雨の日には、外出ができない。風邪をひく心配があるし、滑って転んだりする危険があるから、どうしても必要なところへしか行かない。ふつうは、部屋で手持ちのCDなどを聞く。
このプログを『冬の旅』で検索すると、いくつかの記事が載っているが、やはりここに新たに書き加えておこう。「ライエルマン」は、シューベルト『冬の旅』の第24曲目、つまりそのシリーズ最終の歌曲である。
ドイツ語で「Der Leiermann」、「辻音楽師」と訳される。エドゥアール=マネの「辻音楽師」(「老音楽師」と言うこともある)はバイオリンをもっているが、ここではおそらく古い手風琴をもった演奏家が、しみじみとした旋律を弾いているのだと思う。歌詞の意味はよくわからないが、何となく身につまされる内容である。
雨の日には、外出ができない。風邪をひく心配があるし、滑って転んだりする危険があるから、どうしても必要なところへしか行かない。ふつうは、部屋で手持ちのCDなどを聞く。
このプログを『冬の旅』で検索すると、いくつかの記事が載っているが、やはりここに新たに書き加えておこう。「ライエルマン」は、シューベルト『冬の旅』の第24曲目、つまりそのシリーズ最終の歌曲である。
ドイツ語で「Der Leiermann」、「辻音楽師」と訳される。エドゥアール=マネの「辻音楽師」(「老音楽師」と言うこともある)はバイオリンをもっているが、ここではおそらく古い手風琴をもった演奏家が、しみじみとした旋律を弾いているのだと思う。歌詞の意味はよくわからないが、何となく身につまされる内容である。