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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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似ていたり、ベートーベンとモーツァルトに。


十二曲ほど、自分なりに小品を作曲してみた。その時は気付かなかったが、後でびっくりした。私と同じメロディーをすでにベートーベンとモーツァルトが、使っていたのだ。不遜な言い方かもしれないが、歴史に残る天才でも、私と同じような断片を考えるものだと、つくづく思った次第。

母に抱かれて聞いた歌」は、ベートーべン「ピアノソナタ17番(作品31第2)ニ短調」で、ふつう「テンペスト」と呼ばれる曲の第3楽章「Allegreetto」冒頭の部分。おまけに、無窮動(Perpetuum mobile)のような感じまでが似ている。

子守歌」は、モーツアルト「バイオリンとビオラのための協奏交響曲」(変ホ長調 K.364)第2楽章の冒頭。あまり聞いたことのない曲だったので、大きなショックを受けた。十二音階など現代音楽にするならともかく、単調な短調の旋律は出尽したのではないでしょうか。誰かが「旋律の枯渇化」という言葉で説明していたが、今になってなるほどと思いました。
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たらちねの母の思いは、なつかしきもの。


母は、いつまでも母である。私の母も、妻の母も、だいぶ前に死んでしまったので、もはやいない。しかし、いつもなつかしく思う。そして、互いに思い違いなどがあっても、母親のご健在の人がうらやましい。

『方丈記』に、「山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ、峯の鹿(かせぎ)の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかる程を知る。」というくだりがある。鴨長明は母ばかりか、父も偲んでいたようだ。また、養和の飢饉では「母の命つきたるをも知らずして、いとけなき子の、なお乳を吸ひつゝ臥せるなどもありけり。」と感慨している。

私は出家をしたこともないし、飢饉を見たこともない。しかし、自分の母をとくになつかしく思うことがある。そして、その感情を「母に抱かれて聞いた歌」と「子守歌」にしてみた。
あちこちと探し求めて、高幡になる。


あちらこちらと東京都内の寺院を探し求めて、千ヶ所くらいを歩きまわった。魚籃観音のおられるところである。百観音のある明治寺や三十三観音ある大恩寺には、当然のことながら魚籃観音もおられる。その他にも、北千住の長円寺には素敵な魚籃観音がいるが、かなり遠いので往復に時間が必要。また、魚籃寺などは秘仏だったり、他の寺ではご開帳の日が決まっていて、いつでも拝顔をするわけにはいかない。

そんな事情で困っていたときに、渡邊五郎師が高幡不動尊にある魚籃観音を教えてくださった。すらりとした美しいお姿で、大きな魚に乗っている観音である。その観音さまは、境内の木立の中に秘かに佇んでおられる。だから、行けばいつでもお眼にかかれる。

そろそろ身体が衰え、遠くへ行けなくなったので、最近は高幡不動尊ばかり行くようになった。
あまりない、いつでも見れる魚籃観音。


私は、観音信仰をしている。中でもとくに、魚籃観音が好きだ。だから、月に何回か拝顔をしにゆく。しかし、行く場所は限られていて、あまりない。もしも、他にご存知ならば教えていただきたい。

私は、長円寺(北千住)や高幡不動尊に行く。長円寺は小さい堂の中、高幡不動尊は屋外、それぞれお参りする。高幡不動尊には、他にも奥殿に一柱おられる。魚籃観音がおられる寺院でも、大恩寺(赤羽)には他の観音さまとご一緒に三十三柱が並び、明治寺(新江古田)には200柱ほどの観音さまがおられて、その中の三柱が魚籃観音。

そんなわけで、長円寺はちょっと遠いために、高幡不動尊へ行くことが多い。いつも屋外におられ、静かに佇んでおられる。私は、その観音さまに参拝をすると、心が洗われたような気持ちになる。
蝸牛(かたつむり)、たこ焼きに似た食べ方をする。


日本ではあまり食べないが、蝸牛(かたつむり)はエスカルゴ(escargot:フランス語)と言って、ヨーロッパでは美味の部類。マイマイ科カタツムリで、とくにフランス料理で用いる。食用カタツムリなので、日本のものとは異なる。でも、たこ焼き用の鍋で煮る場合が多いようだ。

いっぽう、蛸(たこ)焼きはずいぶんはやっている。その専門食堂などがあり、女性には大人気。

私は蛸をはじめとして、烏賊(いか)・海栗(うに)・蟹・海老などをあまり食べないが、それでもイカ墨やエスカルゴはときどき食べる。妻が好きであるから。基本的な方針として、刺身(さしみ)なども含めてあまり食べない。ヨーロッパとは食習慣が異なることはむろんであるが、個人的に動物の死骸をなるべく食べないようにしているからだ。
まだ持たぬ、電子レンジと携帯電話。


私は、いまだに携帯電話と電子レンジを持っていない。そんな生活を現代的でないと、笑われるかもしれない。しかし、考えがあってのことで、今後もしばらく続くでしょう。

まず、電子レンジ。チンをするだけで、何でもできてしまう。便利この上ない。しかし、発売当時に説明を読んで不思議に思った。人間が過去には経験のない方法で、調理をする。もしかしたらその影響があるかもしれないと考え、買わなかった。解凍などは、少々時間がかかっても、自然解凍をする。そのほうが、安全だからである。

また、携帯電話。確かに便利ではある。しかし、耳というか脳の近くで強力な電磁波を利用するのではないだろうか。それが生理的には何となく不気味に思えたので、まだ買っていない。
「めろうふ」か「ばろうふ」と読むか? 迷ってしまう。


三十三観音の中の「馬郎婦観音」である。ふつうは、「めろうふ」と読むことが多い。女性の姿をしている観音さまで、手に『法華経』と頭蓋骨を持つこともある。そのいわれは馬(ば)氏に嫁いだことを物語る。しかし、一方では魚籃観音と同身であるという意見も見受けられる。

経には、そのようなことが多いから、もしかしたら呉音と漢音との読みの違いかもしれない。三十三観音には入っていないが、馬頭観音というのがある。それは、「ばとう」つまり「ば」だ。また、牛頭馬頭は、「ごずめず」と読んで、「ばず」とは読まない。長い間の習慣によっているのかもしれない。

馬喰町の「馬喰」は「ばくろう」だと思うが、駅名は「ばくろちょう」、「う」がない。そんなことがよくある。秋葉原は、「あきば」の原だから、本来は「あきばはら」だったのかもしれない。なお、秋葉神社は「ば」と濁らなくて「あきはじんじゃ」と読むそうである。
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