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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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校正や更新をする楽しみが、~
~図書よりも、気軽にできるこの五七七。


誰か忘れましたが、ある作歌が志賀直哉宅に訪問すると、彼が短編を手直ししていたという話があります。
小説の神様などと言われるほどの文筆家でも、何回も加筆や手直しをするようです。

ホームページの場合は、図書などと比べると校正や更新が簡単です。
また、全文中から検索をしたり、文字の置換をすることにも時間がかかりません。

そんなわけで、校正や更新そのものが、知的空間を広げる作業でもあり、「生きている証明」にもなるのです。
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何もかも、するのがいやになるときもある。


若いころは、そんなことがなかったようです。
しかし、老いてくると疲れちゃって、何となく何もかもするのが億劫になりがちです。

つまり、精力が衰えて、物事に対する情熱が薄れたためでしょう。
そんなわけで、あまりムリをしてはいけません。

私の場合、重篤な病気をやってしまったので、その退院後くらいから次第に気力が薄れてきたみたいです。

横井也有でしたか、俳文集『鶉衣』が有名です。その中に「老嘆辞」という老いを嘆いた文章があったと思います。そして、「ぼつぼつ引っ込むべきか」というようなことが書かれていました。

それを読んだのは、まだ私が四十歳代のころでした。
今、思えば。


デジカメでパチリ、覚えは五七七する。


散歩やハイキングのときに、ちょっと変わった風景があったら、デジカメでパチリ。そして、その覚えを五七七にしてメモっちゃう。
それが、そのまま「生きている証明」になると考える。

そんなことをすると、実に日々が活性化をするではないか。

デジカメは、かなり大きな範囲が何万画素という高密度で取れる。したがって、必要な箇所をトリミングしてもよい。そんな楽しみと、記事の五七七を作る楽しみがある。

言ってみれば、小学生の日記帳と変わらないかもしれない。
しかし、簡単に編集をしたり、手軽に追加ができるところが、パソコンでするときの大きなメリットであろう。

いわば、記録自体が成長していくことができるのである。
食堂で、ビール飲むわけ、言ってしまおう!


きょうも、吉野家に行きました。
期間限定の鰻丼(うなどん)は、すでになくなっていた。そこで、いつもの通り、私は豚丼(とんどん)とビールを注文する。

ビールは、サントリーモルツの瓶で500ml。ラベルに「粒より麦芽 100% 天然水仕込み」と書いてある。それは、かつて「武蔵野ブルワリー」と言った工場で、丹沢系の地下水を用いて作られている。

「より」が「選り」となっていないのが、ちょっと心配。でも、私は安全性の確認のために、何回かその工場の製造工程を見学しに行っている。

実は、私は食堂で水が飲めないのである。
多摩市の水は、地下水なので夏は冷たくおいしい。

しかし、市の周辺には十近いゴルフ場がある。そして、いずれも市の水源地よりも高台。ゴルフ場にはよく行くが、雑草一本も生えていない。米軍に接収されて、治外法権になっている場所は、かつて陸軍が化学兵器などを作っていて、そのまま地下に放置されているという。

地下水や多摩川の伏流水が、どう流れているか知らないが、安全のために市の水道水は飲まない。

そこで、ニール=ドルフではないがビールの常習?




八月は葉月というか、間もなく晩夏。


陰暦で、八月は葉月(はづき)と言ったそうですね。でも、私は晩夏という言葉のほうが何となく実感を受けます。

幼いころの夏の思い出が、今でも残っています。
銀ヤンマを追ったり、小魚を捕りに行ったり、いろいろと楽しいことがありました。三鷹の上連雀や牟礼(現在は井の頭四丁目になっている)に住んでいたころのことです。

いったい、時間とは何でしょうか?
アルバート=アインシュタインは、

<過去と現在と未来の区別は、いかに根強いとは言え、単なる幻想にすぎない。>

と言っていますが、……

人生は、冗句(じょうく)でもあり、それぞれ茶番。


よく考えてみると、人生そのものに意味はありません。
ないものに意味づけをするのですから、大きな次元の知的空間では矛盾が生じてしまいます。

「joke」(ジョーク)とは「冗談」や「取るに足らないこと」などを言いますが、「話す」という言葉が語源です。
また、「冗句」とは「不必要な言葉」や「無駄な話」を意味します。

それぞれにできた言葉でしょうが、よく似た内容をもっているので、驚きます。
それもそのはず、人生そのものが、考えてみると茶番のように底の見え透いたものなのかもしれません。ただ、フィアフィル魔亜尊ではない本人が、そのことに気づかないだけなのではないでしょうか。

あたかも、養鶏場に飼われている鶏たちの多くがサンダーさんの考えを理解できないように、……


五七七、身近な生の証(あかし)でもある。


言葉は、「生きている証明」をするときに便利である。
例えば、

「生きているか?」

と尋ねたときに、

「はい」

と応えたならば、たいていは生きている。
当然のことではあるが、対話ができたからである。そして、自己対話ができるということも、五七七の優れた機能であろう。
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