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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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訪問者、少ないままに続けてきたり。


誰も見てくれないホームページを作るのは、意味のないことだなどと言う人がいます。
でも、そうでしょうか?

私は、そのようなホームページでも、自分自身が自分自身に対する「生きている証明」として、とても有意義だと思うとります。
そして、子どもを育てる楽しみや、物事を完成させていく喜びが、その中にあるような気もするのです。

何も知らないままに始めたホームページですが、それでもいろいろなことが次々とわかりました。知らなかったことを理解するという喜びも、その中に多く含まれているようですね。

あなたの場合は、いかがですか?


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恐(こわ)くなり、「奇想天外入門」止め(やめ)ぬ。


「神と時間と空間」というようなサブテーマで、

『奇想天外入門』というページを作ろうとしました。

しかし、なぜか恐ろしくなって先に進みません。そこで、しばらくは止める(やめる)ことにしました。

なぜならば、力不足な自分が「めくら、蛇に怖(お)じず」であったり、さらには「蟷螂(とうろう)の斧」であるような気がしてならないからです。

また、自分自身が何となく、次元の異なる対象に全力で向かっていくドン=キホーテのような感じがしないでもありません。

ちょっと、間をおいてみましょう。




この道はいつか来た道、なつかしい道。


なんとなく聞いたような言葉です。
しかし、この五七七ではいいんです。真似であっても、引用でも、さらにパクリでもかまいません。

(もっとも、著作権者との問題については、責任を取らねばなりませんが、……)

人にはデジャビュ(既視感)がありますから、誰もが同じような体験をすることもあるでしょう。

古くは『徒然草』などにも、そのようなことが書かれています。

第七十一段の後半、

<またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覺えて、いつとは思ひ出(い)でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。>

という部分です。
あなたも、そんな経験をなさいませんか?



ルカ一章、二十八節、アナウンスなり。


「新約聖書」の『ルカによる福音書』第一章・第二十八節に神のみ前に妊娠をしたことを告げられます。日本語では、「受胎告知」とか単に「告知」として有名なくだりです。
この宗教も含めて、厳かな言葉を用いるという悪い習慣があるので、最近では単に「お告げ」となっているかもしれません。

ダビンチの絵もあって、なかなか素晴らしいシーンとは思いますが、私は別な考えをもっています。
つまり、実際に起こったことを後になって神聖化する工夫が訳された文章からも見え見えなのです。また、実際になかったことを構築する技法が何となく感じられるのです。

しかし、私は学者ではないので、いずれが真実であるかを確かめようとは思いません。ただ、自分自身の常識でわかる範囲の解釈をすればよいと思うのです。
あなたは、いかがでしょうか?

参考ながら、下記はダビンチの「The Annunciation」という絵です。

http://www.artbible.info/art/large/270.html
夏の日の河原を行けば、キリギリス鳴く。


多摩川の堤外(ていがい)を歩くのが、私は大好き。
そこは、堤防のいわゆる内側であるから、河川敷(かせんじき)。つまり、大水が出たときに河床になる部分で、砂利のままである。そして、ふつう雑草が生えている。

そこを素足にサンダルを履いて歩く。とても、気持がよい。
夏の日照りには、キリギリスが鳴いている。「ギース、チョン」という鳴き声が喧しい(かまびすしい)。
しかし、歩いていくと鳴きやむ。そして、そこを過ぎ去ると鳴くのだ。

どこにいるかなと思って、立ち止まってみることがある。しかし、なかなか見つからない。
そんなときに、ふっと思う。こんなことが、幼いときにもあったということを。それは、デジャビュ(既視感)などとは違って、実際に体験をしたことだから、とても強く懐かしい思いがする。

そんなこと、ありませんか。

久々に浅漬け(あさづけ)食べる、懐(なつ)かしき味。


妻が働いている会社の秘書さんから、トウモロコシとキュウリ、そしてキュウリの浅漬けをいただいた。そこで、私もお裾分け(おすそわけ)を食べた。
とてもおいしかった。それとともに、何となく母の記憶が蘇って(よみがえって)きたのである。
そして、懐かしい記憶の断片が次々。なぜならば、幼いころに母がよく作ってくれた味だから。

妻の食事が危険であると言って、喧嘩をして台所を交代してから、私はここ10年ほど味噌汁や漬け物を作っていない。第一、台所には味噌も置いていないし、塩や砂糖さえもない。むろん、マヨネーズやトマトケチャップなどない。味付けは、醤油だけ。

野菜や果物は、ふつうそのまま食べる。
トマトやキュウリ、そしてリンゴや梨、それらはふつう丸ごと皿に盛る。盛るというか、ただ洗って載せるだけ。そして、小さいナイフで少しずつ切り出して食べる。切り口を酸化させないためです。

サツマイモやトウモロコシなどは、圧力釜で茹でる(ゆでる)。やはり、いただいたトウモロコシもそうした。甘みがあって、とてもおいしかった。
秘書さん、ありがとう。


河原を進めばバッタ、わが先を行く。


多摩川の河原の草むらを歩いているときです。
青いバッタが、私の歩いている先を飛んで行きます。そこまで行くと、さらに前のほうへ飛びます。

そんな習性が虫にあるのでしょうか。ただ、逃げているだけなのでしょうか。
幼いころに、ハンミョウという虫がいました。
その虫は、やはり前へ前へと逃げていきます。虹色の美しい虫なので、必死になって追っかけるのですが、決して追いつきません。

河原にいる青いバッタは、おそらくトノサマバッタなのでしょう。
「ギィーッ」となくキリギリスは、めったに道には出てきません。
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