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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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飴色(あめいろ)に輝く鰻(うなぎ)、食べると至福。


今日は、「土用の丑の日」らしい。
そんなわけでもないが、吉野家で鰻丼(うなどん)を食べた。調理場で焼くのではなく、すでに焼いてあるのをレンジで暖めるらしいが、それでも飴色に輝いている。

焼くときにするような香りはないが、それでもなかなかおいしい。
490円の丼(どんぶり)であるから、鰻は三切れでも非常に小さい。それがまた、好ましいのである。
脂肪やカロリーを取りすぎないためである。

いつものとおり、中瓶のビール(500ml)とともにいただく。
とても、幸福な気持に浸(ひた)る。
それこそ、私の至福でもある。
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駄作でもかまいませんが、日に一つずつ。


佳作でなくて、駄作でもかまいません。
できたら、日に一つずつ書き残すようにしましょう。
もっと多くても、かまいません。

少なくとも、日に一つは残してください。
それが、「生きている証明」になるからです。

佳作や秀作などというものは、めったにできないようです。
それは、その人の素質にもよるからです。
私の場合、努力をした割には下手な作品ばかりができあがります。

しかし、作ることに意味があるのですから、秀作だとか駄作だとかということに、気をかける必要はないでしょう。
生き様は、それぞれ違い、癖などもある。


人間には、個性があります。
また、個々に癖などをもっているのがふつうです。

しかし、個性と言っても考え方や癖などは、ある程度パターン化しているのではないでしょうか。

ギリシアのデオプラトスが書いた『人さまざま』という本が、残っています。もはや、断片のような形になってしまってはいるのですが、それでもそれを読むと実に不思議な気がします。

それは、ギリシア時代にいた人と同じタイプの人が、私たちの回りにも多くいるということがわかるからです。
科学技術は大いに発展をしたものの、もしかしたら精神的な内容は、あまり進歩をしていないのではないかと疑ってしまいます。
生きている実感などを失いたるか?


若いころは、日々元気がみなぎって、「生きている」という実感が強かったものです。しかし、老いてくるとどうでしょう。

何となく感覚が鈍くなってしまって、生きているという実感自体も薄らいでしまいます。

そこで、日々「生きている証明」が必要になる所以(ゆえん)です。
その「生きている証明」の方法として、この五七七があります。

簡単な記述で、実際の日々のことを書き連ねてもよいでしょう。
また、心に浮かんだことを思いつくままに文章にしてもかまいません。
そして、とにかく「生きている実感」を失わないようにしましょう。
オシッコを我慢するのは、身体に悪い。


『タルムード』だったでしょうか、ユダヤの有名なラビが書き残している言葉です。日本でも、「出物腫れ物(でものはれもの)所(ところ)嫌わず」などと言います。

オシッコを貯めた状態で転んだりすると、膀胱が破裂することもあります。そうすると、大変危険なことになってしまうでしょう。

また、乗り物に乗るときは、乗る前に時間があったら必ずトイレに行くようにします。もしかしたら、途中で事故にあって長時間、車内に閉じこめられたりすることがあるからです。

また、自宅でオシッコをするときは、毎回カップに取って目視検査をしたり、週に二・三回くらいは、市販の試験紙を用いて尿糖や尿淡白の検査をするとよいでしょう。


マストドン・アケボノゾウは不思議であるか?


川崎市生田公園の青少年科学館にあるアケボノゾウの化石、そしてすでに廃館になってしまったが高尾の自然科学館にあったマストドンの化石、実はそれらを自分の目で見るまで、正直なところ、私はそのような動物が関東平野にいたということをちょっと信じられなかった。

化石を見て、初めて実際にいたことを納得した。
しかし、化石を見ても信じない人もいるという。
例えば、恐竜の化石である。

「恐竜などはいなかった」という人たちがいるそうだ。
「だって、化石があるじゃないか?」と言うと、「それは最初から化石として、神様が作ったもので、生きていた動物が化石に変化をしたのではない」などと言うそうだ。
迂闊(うかつ)にも始めて見たり、この五七七。


俳句が和歌などの発句(ほっく)から独立したものと考えて、発句だけで終わるのは初心者には困難であろうと考えた。とくに、エンジニアである私の場合には。

そこで、むしろ結句(けっく)に近い形で、言い足りなくなることなしに終わりやすくしてみようと考えた次第。

そんな軽率な観点で、始まったこの五七七。
やってみると、いろいろな問題があることもわかった。

ちょっとばかり、迂闊であったかもしれない。
もともと、私はおっちょこちょいで、そんな事が会社で働いていた時代にもよくあったもんだ。
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